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古谷野 慶輔

バンド『空間現代』ベース

空間現代/外

草、ホイール、手紙、ドア…いくつもの映像が観客に想像力を委ねる。
委ねられた私たちはそれについてどのような反応を取ることも可能であり、
その後どのような行為に及んでも構わない。受け取ったものの扱いは自由である。

安部 聡子

地点/女優

『嵐電』『ドライブ・マイ・カー』

「昨日あべちゃんの夢をみたよ」その人は帰り際突然言った。昼間私が出演している映画を観たせいだろうとも言った。やべえ。人の記憶に残っていくということは異なもの、おそろしいことだ。でも必死で残ろうと、すこしでも良く残ってくれればいいと願う。夢に私が出てきたというその人は、もうこちらにはいないので、どんなだったか聞くことはできないし、次の作品をみてもらうこともできないのだけど、これからは、『静謐と夕暮』を観たこれからは、光る草むらの中に、電車が川を渡る窓に、音に、振り向いたそのさきに、自分がみた夢でもないのに何度でもその時のことを、何度でもそのまま思い出せばいいんだ。と、学びました。

染谷 かおり

写真家

誰かの記憶を映しているかのような不思議な気持ちになりました。日常にあったかもしれない、これからの日常にもあるかもしれない。そんな景色が広がっていました。

中山 博喜

写真家

写真集『水を招く』

緊張感を持ったこれらの映像の一つひとつと遭遇するあなたは、いつしか自分の内なる記憶と対峙することになる。

行定 勲

映画監督

『世界の中心で愛を叫ぶ』『劇場』

この映画で描かれた停滞した時間に、どっぷりと浸かって漂った。ただ風が吹き緑が無駄に輝き、人々は生きて同時に死んでいるような時のはざま。主役の山本真莉に宿る虚無を見て 、何者でも
なかった頃の自分と重なっていった 。
彼女は原稿用紙に何を記し、何を葬ったのだろうか 。
あのどこでもない河原にある孤独な魂を見届けながら、過去でも現在でもない時が流れ出し、いつか帰結するところを想像していた。

宮崎 大祐

映画監督

『VIDEOPHOBIA』

何という天才!『静謐と夕暮』は光と影と、二度とはない時間だけがつめこまれた宝石箱のような映画だ。

金子 雅和

映画監督

『リング・ワンダリング』『アルビノの木』

2 時間超えの長尺を、するすると水を飲むように快く観た。同時に、選び抜かれた光と色と音により緻密に作られた逢魔が時の世界に浸食され、神隠しにあうかも知れないスリルを覚えた。
最後まで観終えると、もう一度どこかから観始めたくなる本作の不可思議な魅力は、初めて行った異国でひとり、知らない人たちの日常をぼんやり眺めている時の浮遊感に近い。
私はいま、『 静謐と夕暮 』の時空から、現世に戻って来れているのだろうか。

林 海象

映画監督

『夢見るように眠りたい』

映画には、見せる映画と見せない映画の二種類がある。殆どの映画は見せる映画であるが、稀に見せない映画が存在する。見せない映画とは、普通は見せてしまう部分を隠し、観客に想像させ感じてもらう映画である。この映画はその稀な映画である。人は森や川を見たとき、その感じようは人それぞれの感受性の中にある。この映画が伝えたい静寂は映像で撮ることができない。だから感じてもらう。この映画を観てあなたがどう感じるのかを、この映画は問うているのだ。

降矢 聡

映画配給

Gucchi’s Free School 主宰

唯一無二の物語、完全無欠の明確なイメージこそが自らを発展させると信じる数多の映画をよそに、鮮明さなどには背を向けて、曖昧に溶け合う色と音にその身を任せる梅村監督が見ている景色は、映画が朽ちた数百年後の未来のようだ。
かつて栄華を誇った都市の遺跡に生い茂る草木のように、『静謐と夕暮』に横溢する緑は凛々しくも美しい。

矢崎 仁司

映画監督

『風たちの午後』『三月のライオン』

ファスト映画とか再生スピードコントロール機能とか、急速に壊れていく今の映画の世界で、『静謐と夕暮』は映画の可能性に挑んでいる。映画は光景と音で暗闇に投げられた石だと思う。澱んだ空気を慄わせ、波紋になり、転がる。きっと誰かの記憶に触れ、忘れていた何か大切なものを思い出す。

白石 和彌

映画監督

『ロストパラダイス・イン・トーキョー』『狐狼の血』『凶悪』

丁寧に積み重ねた映像と丹念に拾い集めた音が静かに人の呼吸を際立たせる。一輪挿しの花のように孤独な人々を梅村監督は優しいショットで包み込んでゆく。スクリーンと対峙しながら、いろんな問答を自分と繰り返した。長期熟成されたウイスキーを味わうように、深く記憶の余韻が広がる映画だ。

北小路 隆志

映画批評家

『王家衛的恋愛』(書籍)

放心状態の「漂流物」めいた人々が、そこに強力な磁場があるかのように雑草が生い茂る頭上の鉄橋を多くの列車が行き交う川辺に吸い寄せられる‥‥‥。そんな後悔を眺めながら、映画とは、時間や空間の表象=再現である以上に、時間や空間の創造であり彫刻なのだ……とあなたはあらためて気付かされるだろう。
『静謐と夕暮』は驚くべき傑作であり、本作を覆う静かで危険なノイズは、「力まかせの空騒ぎ=面白い映画」なる幻影を無言のうちに、しかし完膚なきまでに破壊する。至福の映画体験が約束された136分である。

鈴木 卓爾

映画監督/俳優

『嵐電』『ジョギング渡り鳥』『私は猫ストーカー』

『静謐と夕暮』は、太陽の傾きも、月の昇るのも、それは刻一刻と変わっていくトキメキに満ちているのだと思い出させてくれる映画だと思います。たった三人のスタッフ、そのうちの一人が主演俳優も兼任した『静謐と夕暮』にはざわめきを発見する冒険が満ち溢れています。タイトルにある「静謐」というキーワードには一切の情報や予定調和とは無縁な造りなのだという暗号が込められています。人が何かに向かっている背中をじっと見る活劇に高揚する、な映画が好きな人ならとても新しい映画が生まれたと鼻腔から深く吐息をつかれるのではないでしょうか。

伊藤 高志

映像作家

『静謐と夕暮』観ました。堂々たる2時間16分でした。
主人公の女の子が最後まで一言も喋らない、ということはこの映画は非説明的に突っ走ると宣言してるようなもの。
案の定物語は結末へ向かって散りばめられた意味が収束していくことはなく、予期せぬ文脈へ横滑りしまったく宙吊りの状態へ。
その潔さが感動的でした。
アラン・ロブ=グリエという作家が「世界は事象が存在するのみで、お互いが関係しあい意味づけされることはない。
モノがそこに在るのみ」というようなことを言ったのですが、現実とはまさにそのようなもの。
私もこの言葉に深く感銘し私の映画も現実の曖昧さを伝えたいので、そのように演出しようと心掛けています。
ようするに既製の映画が追求する「わかりやすさ」を否定すること、です。
「わかりやすさ」とは世界を単純化することであり、現実逃避です。
逃避せず戦っている梅村くんの姿勢を高く評価します。これからも頑張って下さい。

大崎 章

映画監督

『無限ファンデーション』『お盆の弟』

小学校2年生の時、昼寝をしていて天井の木目を見ていたら、突然生まれて初めて『死』の恐怖が降ってきた。怖くてたまらなかった。『静謐と夕暮』を観ている途中にその事を思い出した。何故だろう。いつも散歩する公園がある。僕がその公園で寝ていて、もしも小学生の女の子が僕の顔を覗きこんだら。その後畳の上の布団に体が瞬間移動したらどんな気持ちなんだろう。イメージの連鎖が気持ち悪いのだけど、心地よい。景色が良い。
観ている途中で、この映画の中に入りたくなった。今日はとんでもない才能に巡り会えた日だ。

原 摩利彦

音楽家

これまで静謐について考え作品を発表してきたが、この映画には私のまだ知らない「静謐」があった。
ただ台詞が少ないことや、静かな場面が多いからだけではない。きっと監督のじっと見つめる眼差しがもたらすのだろう。一方で、静謐とは裏腹に監督の強い情熱が根底に横たわっているのも感じられた。音楽まで自ら手がける梅村監督がこれからどんな映画を撮っていくのか、とても楽しみにしています。

山西 竜矢

映画監督/劇作家/演出家

『彼女来来』

今日から明日への変化は、いつもささやかです。
同じような悩みを抱え、同じようなご飯を食べ、同じような景色に囲まれ、ほとんどの日は過ぎ去っていきます。たまに大きな変化があっても、日々の暮らしはそれすら取り込み、やがて地ならしされてしまいます。
静謐と夕暮は、そんな平坦な日々にある美しさや残酷さを、逃がさないよう、そっとすくいとるように捉えていました。希望も絶望も、生も死も、あらゆるものが並列に、ある種の平等さを持ってポツポツと画面に並んでいく。
自分が忘れてしまっても、この映画が大切なことを覚えてくれている気がして、僕はなんだか救われた気がしました。

池添 俊

映画作家

『愛讃讃』『朝の夢』『あなたはそこでなんて言ったの?』

日常では思い出す暇もなく
ふとよぎっても通り過ぎていく

咳の奥に聞こえる川の音
おんぶした時に見た鮮やかな緑
鉄橋に映った黄色い自転車の影
“明日も晴れるみたいですよ”

いつでも 風が吹いていた

大切なことは忘れたふりをしても残っている

山本 英

映画監督

『小さな声で囁いて』

主人公の女性・カゲは言葉を持たない。彼女は言葉の代わりに自転車を漕ぎ、文字を書き、鮎や白米を頬張る。その姿の中に彼女の思いは落ちている。無理に言葉を投げかける必要はない。見つめることで対話もできるということを『静謐と夕暮』は教えてくれる。繰り返される記憶のような輝かしい風景の隙間を夏の涼しげな光と風が通り過ぎていく。

上川 周作

俳優

NHK『まんぷく』映画『CHAIN/チェイン』

「自分、生きてるなぁ」と実感できる映画でした。
傷ついたり目的を見失ったり居場所を無くしても、自分で自分を励ましたり自分に優しくできれば、生きるエネルギーが湧いてくる。映画が終わって立ち上がると、体内には温かいエネルギーが駆け巡っていました。

工藤 梨穂

映画監督

『オーファンズブルース』『裸足で鳴らしてみせろ』

ぬるい覚悟で、なんとなく撮られたショットがひとつもない。⼀瞬の迷いや揺らぎさえなく、徹底して“静謐”でありながら、しかし恐ろしいほどの熱量で、全篇が強靭な意志に貫かれている。その何たる切実さ。朝起き上がる活⼒も思い出せず、ただひたすら何かが苦しい。そんな⼈たちに観てほしいと強く思った。どうしようもないほどに居なくなってしまいたいと思う⽇や、その淵に⽴っているような⼈が、息ができるような時間が流れているからだ。何かを理解しようとしなくても良くて、じっと⾒つめるだけでも良い。いつか、この映画で観た情景をふと思い出し、途⽅もない感動に包囲される⽇が必ずやってくる。
『静謐と⼣暮』という傑作を、梅村和史という映画作家を、私たちが⾒逃す理由はない。

松野 泉

映画監督

『さよならも出来ない』

よりよく見ようとして、よりよく聞こうとして、そうやって映画が作られていく。引き延ばされた一瞬が通り過ぎていく。〝ほとんど何もない”風景を大事なものだと信じてる。こんなに静かな蝉の声、はじめて聞きました。

川合 匠(カワイオカムラ)

映像作家

『ヘコヒョン』シリーズ、『Mood Hall』

人物、鉛筆、自転車、文化住宅、リアカー、居酒屋、道路、鉄橋、風に靡く草、虫の音、空、河川敷・・・それら情景の悠々とした時間の流れはただ懐かしく、幽霊の気分で見入ってしまった。

川添 彩

映画監督

『とてつもなく大きな』

平然と道に迷う/悠然と闊歩。周りは気づかない/ここはしらない。拡がる視界に眠る色が融ける。泰然と、でも/落ちる夜。緊張/緊張しているし、まあ、めっちゃ不安/実際。静かな湖畔に指を立てる/波紋。
梅ちゃんはいつもだいたい橙色の服を着ているのだった。

古厩 智之

映画監督

『まぶだち』『ホームレス中学生』『のぼる小寺さん』

まだ子供のころ、夏の夕方、5時半から6時半、空気は青く、水面は鏡のように静かで、私はなくなる。世界に溶けてゆく。「静謐と夕暮」のスクリーンでは、風はざわざわといって、扇風機は回る、電気が消える、キレイ、夜走る自転車、電車の窓の反射が橋脚に移る…。
他人に見られる、という自意識がないぶっきらぼうな主人公の少女、過去を旅し、辺境の川原に、何もしない。ただただ、目が開かれて行く。
主演の山本真莉の自意識のない瞳は、世界に名前のつく前の豊かな時間を垣間見せてくれる。
詩のような時間を生きることができていた時間を。

唯野 未歩子

映画監督/女優

『三年身籠もる』『9souls』

みおわったあと、はたと気づく。いまみた作品は『映画』ではあるが、出発点は『詩』のように思える。『映画』の根っこには一篇の『詩』があったのではないか、と。この『詩』は、わたしのつづった物語と、かすかに関わり、また無関係で、濃厚に絡み合ってもいたのだと知る。『静謐と夕暮』は、だから、私には『詩&映画』というよりは、『詩そして映画』というふうに感じられる。

村川 拓也

演出家

『ムーンライト』『あの子』

なぜかこの映画を観たあと、記憶の中にこの映画が残ってしまいました。いくつかのシーンや時間がすでに自分の記憶として残っています。それは観終わってからのことではなくて、たぶん、観ている最中に自分の中にある思い出みたいなものをずっと思い出しながら観ていたからなんじゃないかと思います。

窪瀬 環

女優

『嵐電』『天の火』『東京の恋人』

無作為に、ただただ歩かないと再会できない物事があるのでしょう。限りなくこの世に近く、この身にも近いどこかの世界の夏に引き込まれました。この映画の光は、映画館で観てほしいと強く思います。

辻 凪子

女優

『ぱん』『わろてんか』『オーファンズ・ブルース』

2時間越えの長編映画をもっと知りたくなって続けて2回見た。ガタンゴトンガタンゴトンと、静かにゆっくりと映画の世界に吸い込まれていく。何故こんなにずっと眺めていられるのだろうか。彼女が過ごしている日常は興味深くて美しい。生きているだけでいいやと思った。
類を見ない卒業制作。梅村組の4年間が世界に放たれた。

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